雲が流れていく〜体験知の重要性〜

 

今日のテーマは「入道雲」ではなくて、国語の文章の話です。

 

もっと言えば、「体験知の重要性」の話です。

 

そこに着陸するので、しばらくお付き合いください。

 

文章を具体化しましょう

 

先日、小学生国語の論理学習の一環として、主語-述語の骨組みだけの文に、具体的な肉付けをしましょうという課題を取り扱いました。

 

 

お題:「雲が流れていく」

 

 

主語と述語が与えられているだけで、詳しい状況が伝わりません。

 

それを、自分の想像で補いながら文章を具体化していくのです。

 

 

 

すると、ある6年生の生徒からこんな文章が出てきました。

 

 

「夕暮れ時のオレンジの空の中、入道雲が僕の頭上から向こうの方へとゆったりと流れていく。」

 

いかがでしょう。

 

なお、この生徒の名誉のためにも言っておきますが、この子は学力はとても高いです。

  

それでもこんな間違いを犯すのです。

  

私が何を問題にしたいのか、お分かりでしょうか?

 

 

そんな状況はあり得ない

 

文法的には間違っていないでしょう。

 

想像すると、それなりに綺麗な光景が浮かんできます。

 

でも、そんな状況はありえないのです。

 

 

入道雲とは、積乱雲のことです。

 

 

夏の遠くの空に、もくもくと空にそびえるように見えるのは、夏の日差しで水蒸気が猛烈な勢いで上昇しているからであり、その下は基本的に土砂降りです。

 

入道雲は遠くから見るから入道雲に見えるのであり、その下にいる時は自分が入道雲の下にいることすら気づきません。

 

そんな入道雲が「僕の頭上から向こうの方へゆったりと」流れる様子は通常見ることはできず、さらには、その時オレンジ色の夕暮れの空であることはあり得ないでしょう。

 

トップ画像のように、「入道雲が遠くの空にゆったりと浮かんでいる」は分かります。

 

あるいは、「右から左へ流れていく」もなんとか理解できると思います。

 

けれども、「入道雲が僕の頭上から向こうへゆったりと流れていく」は強烈な違和感を覚えます。

 

↓参考図

 

また、同じ授業で、別の子がこんな文章を作っていました。

 

「ふわふわとした白い雲が、まるで迷子であるかのように、右へ左へ流れていく」

 

比喩が使われており、小学生が授業中に瞬時に作ったにしては、文法的には悪くないです。

 

 

しかし、やはり突っ込んでしまいます。

 

 「いやいや。それは風がどう吹いてるから、そう動くの?」

 

 

すると、

 

「え? 雲って風で動いているのですか?」

 

と返ってきました。

 

 

それを見たことがあるのか?

 

雲が風に流されていることを知らないのは驚きましたが、ここで問題にしたいのは、そうした理科的な知識を知っているかどうかではありません。

 

「そうした状況を見たことがあるかどうか?」を問題にしたいのです。

 

そして、自分が書いた文章を自分の経験と照らし合わせ、どれくらい違和感を持つのかを問題にしたいのです。

 

 

 

もちろん本人たちが、ファンタジーの世界を自覚的に書いているのなら、問題にしません。

 

想像力が豊かだね、と褒めてあげるでしょう。

 

しかし、本人たちが、現実にあり得ないことだと気付かずに書いていることがまずいのです。

 

ゲームやファンタジーの世界と、現実の体験をごちゃ混ぜにしているとも言えます。

 

 

 

 

自分の体験から学ぶ知識を「体験知」と言います。

 

 

 

ここ数年、この体験知が弱いと感じることが多くなってきました。

 

いや、昔から感じていました。

 

最近は、それにますます拍車がかかってきたと思うのです。

 

体験が薄弱で、身の回りの出来事に無頓着すぎる、と。

 

学校で習うわけでもない、塾で学習するようなことでもない。

 

普通の生活の、普段の体験から学ぶ知識。

 

 

 

 

以前、香川県がゲームを1時間に規制しようと物議を醸しましたが、この体験知の弱さを日々実感する私としては、納得するところです。

 

 

ゲームなんかやっている場合じゃないって。

 

外で遊べ。